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2022-08-120か100思考 自尊感情の低さ
お知らせ
自尊感情が低い人は、「0か100か思考」に陥りがちです。
これは自分に厳しい完璧主義のようですが、実は異なります。
一流の人が、自分の仕事に対して「これでよし」と満足せず、「まだ改善できることはないか?」と探し続ける完璧主義とは根本的に異なります。
これは仕事に対する愛ゆえのことです。
彫刻家が自分の作品をこよなく愛すればこそ、何度も何度も手を入れるようなことです。
これらの人々には「自分は完璧には程遠い人間だ」という謙虚さがあります。そして仕事は相手あってのこと。締切や限られた予算の中でできることを精いっぱいやってこそ、責任が果たせます。
そしてその時の自分のベストを尽くすことと、仕事そのものの評価を分けて考えることができます。
「0か100か思考」は「(仕事や、技や、作品ではなく)自分の存在が完壁であるはずだ」という自己陶酔の現れです。
そして実際には「思ったように完壁ではない自分」を受け入れるのが苦痛なため、結果「0」に、何もしない事を選択してしまいます。
人は行動を積まなければフィードバックを得られず、気づきもなく、成長が止まってしまいます。
そしてますます自分を縮こまらせてしまう悪循環に陥ります。
この自己陶酔は、程度の差はあれ誰でも持っています。
自分の力を大きく見積もったり(「間違ったり、未熟な自分を認めたくない、見たくない」)、逆に「どうせ私には無理だから、私は馬鹿だから、他の有能な人がやればいいから」と小さく見積もったりしてしまいます。
十代後半から二十代前半くらいまで、人はナルシシズムと自信のなさの間を揺れ動いています。
経験が浅く、それでいて自意識過剰になりがちな青春まっただ中の時、これは誰しも避け得ない道です。
やがて自分は自分が思っていたほどには、美しくも賢くも優しくもない、という現実を否が応でも目の当たりにしていきます。
学校で多少ちやほやされていても、社会に出たとたん「何もできない自分」を目の当たりにします。たくさんのミス、失敗を、先輩や上司にかばってもらい、そのたびにピノキオのように伸びていた鼻が打ち砕かれます。心ある先輩や上司なら、「自分も通ってきた道」と受け入れてくれます。
そして、自分は他の人と違う、特別な存在だと思っていたかったけれど、隣のAさんともBさんともそうは変わらない、ただ個性が違うだけだということに気がつきます。
この世には特別な人などいない、ただ「普通の人々」がいるだけ。言葉を換えれば、全員特別な人です。
普通の人間同士が力を合わせるから素晴らしいのだ、ということが徐々にわかってきます。
そして私たちは大人になっていきます。だからこそ、若いころの失敗や挫折はかけがえのない財産です。
しかし、失敗や挫折は財産だ、と思えないままだと、「水鏡に映った完璧な私、すっころんだり、失敗することなどない完璧な私」に恋をし、溺れ、「そうではない現実の自分」を罰し続けてしまいます。
うつ、摂食障害、依存症、衝動行為、症状の違いはあれど根幹にはこの自己陶酔、逆から言えば自尊感情の不足があります。
この自己陶酔から脱出するための最大の条件は、「自分の人生に責任を持つこと」、「だって誰それが~と言うから、するから」の責任転嫁ではなく、与えられた条件の中で「自分はどうしたいのか」「何を選ぶのか」、これを措いてほかはありません。
「だって」「どうせ」を言っている間は、どんな人であっても結果は出ません。
弊社の心理セラピーでは、「違う見方の提案」や「現状の整理や、心理的側面の解説」は多く行いますが、私(足立)から「こうしろ」「こうするべき」は言いません。何であれ、クライアント様が「自分で選んだ」実感が重要だからです。
人は皆、「何かと何かを天秤にかけて、自分が選んで」います。今生きているということは、「死ぬよりかはまし」なものを選び続けた結果です。明確に意識はしていなくても。
逆説的ではありますが
「何もかもは上手く出来ない自分」
「全ての期待には応えられない自分」
「時にすっ転ぶかっこ悪い自分」
を大事に、そして「なかったことにしない」。それが、自尊感情が高まること。だからこそ、困難から逃げず、過剰な取り越し苦労もしなくなり、今日できることに集中できます。想像できるでしょうか?取り越し苦労と終わったことをクヨクヨがなくなるだけで、どれだけ毎日が楽になるかを。
そしてこれは、「楽ができる」ではありません。ボクシングで、当たらないパンチほど疲労するものはないそうです。「楽になる」とは、パンチを打たないのではなく、当たるパンチが打てるようになることです。「どうせ当たらないから、最初から打たない」は0か100か思考です。
自尊感情が高まるとは、こうした意味における「楽になる」ことなのです。